葉野菜と根菜

人間はざっくり二分すると、葉野菜タイプと根菜タイプに分けられると思う。

そしてそれは野菜と同じように、生まれた季節に関連性があるような気がする。

葉野菜タイプは、表面上に人物そのものがあるようなタイプで、社交的で理解が易い性質で、4月から10月生まれの人に多い。

対して根菜タイプは、地下深くに人物像が埋め込まれているようなタイプで、理解に時間がかかり、掘れば掘るほど出てくるといった性質。11月から3月生まれに多い。

上の分類は野菜の旬と同じく、緩やかに互いに移行している。陰と陽が緩やかに入れ替わるように。

もちろん人間は多様性があり、一人ひとり本当に違うので、分類など不可能で無意味な作業なのは承知の上でございます。ただこのように頭の中で整理分類してしまうのは、私の性なのです。

『天才は冬に生まれる』という新書がある。タイトルの通り、歴史上の大天才は皆冬生まれだったということから、そのエピソードと、軽く脳科学的な根拠に触れそうで、触れない、といった内容である。今のところは推測の域を出ないようだ。
生まれ月とその性質に何らかの関連性があり、それは科学的にも証明できるだろうと思っていたので、今後どこかの科学者が好きなら解明してくれればいい。

私の数少ない親類や知り合いを見てみると、上の法則にはそれなりに当てはまっている。単なる偶然ではないと思う。
天体の関係もあるだろう。気温の関係もあるだろう。
何か、が、あるのだ。

私は根菜人間なので、同じ根菜タイプの人に親和性を感じるし、一緒に過ごしやすい。葉野菜タイプの人は刺激を与えてくれ、もっと自分をストレートに表現したらいいんだ、もっと素直に生きればいいんだと、生きる姿勢を学ぶことが多い。

私たちカップルの場合、彼は内気な性格なのでぱっと見根菜タイプのようにも見えるが、その性質はやはり葉野菜で、根菜の私とはうまくバランスが取れていると思う。私が地下深くにもぐりこんだら、ちゃんと引き上げてくれる。自分にとっては深刻な悩みや苦しみも、笑いに変えて吹き飛ばしてくれる。
この世界は、常にバランスを取るようにうまくできている。

緑の葉っぱが食べたいときも、滋味ある根菜が食べたいときも、どちらもいっぺんに食べたいときもいろいろあるように、どんな人間も何らかのバランスをとるために、この世に存在しているのだと思う。

陳腐な締めだけど、そういうこと。

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ある晴れた日に

あと何万年か、何億年か、とにかく地質学的な年月を経たら、日本はヒマラヤよりも高い山上にあるという。

北アメリカプレートとユーラシアプレートがどんどん近づいていって、インドがアフリカから離れ、今の南アジアまでぷかぷか旅をして、巨大なヒマラヤ山脈を造ったように。

とにかく、私たちが生きている間には、そして、その子どもや孫の世代でもまだまだ関係のないことだから(巨大地震が起きるという点では無関係ではないけれど)、今の生活を続けるより他ない。

ただただ健気に、朴訥に、強かに生きるしかないのだ。

  

「あんたそれ、拾ってきた猫を捨てられないのと一緒やで」と言われた。
貪欲に幸せになろうとしていないのかもしれない。今が既に幸せだから、これ以上の幸せはいらないのかもしれない。

すんません、私、拾った猫は捨てない主義なんで。

勉強は実に楽しい。麻薬に近いほどの快楽だ。

あなたが欲しいなら、いくらでも、あげる。

自分で掻き集めたものを、はらはらはらはらと手放してゆくのは、実に愉快で楽しい作業である。

  

もし日本がヒマラヤよりも高い高山国家になったならば。
肌の色は変わり、体格も変化し、そこで得られる食物も変わり、「日本人」という名称はなくなっているかもしれないし、人類が滅亡せず存在しているのかさえ、わからない。

その時私は、一輪の花になって、
高い山の上から、この世界を眺めていたい。

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28億光年の孤独

男の人は、スナフキンが好きだ。
それは彼らが永遠の孤独への旅をし続ける存在だからである。

昔付き合っていた人に、
「私たち、結婚したらお互い愛人を作って、楽しく暮らしましょうよ」、みたいなことを言ったら、
「それだったら、何のために結婚するのかわからない」という趣旨の答えを返された。

あの頃は、まだ彼も若くて、自分の隣にいる女の子を鬱陶しく思う日が来るとは思わなかったんだろうな。

女は常に愛を求めて彷徨い、男は常に孤独を求めて彷徨う。

大人になったあるとき、ふっと、孤独への旅に疲れて、帰る家が欲しくなるかもしれない。家庭を築き、それに満足している自分も紛れもない自分である。
でも、幾つになってもまた孤独への旅に出たくなる。自分で作った巣なのに重くて重くてしょうがない。それは行ったり来たりの繰り返し。

女は欲張りで、愛を独り占めしたくなる。
生殖のために余力を残し、あるいはそれに全力を注ぐ生き物であるから、好きな男を片時も離したくなくなる。自分の一部にしてしまおうとする。

でも、男は日常レベルで孤独への旅に出ているから、つかまらない。
束縛すれば、するりと逃げる。
愛おしく感じる女も途端に鬱陶しくなり、そのことに自己嫌悪に陥る様も、女の目には自分勝手に写るときもある。

男は、絶対的な孤独を抱える悲しい生き物である。
飲み屋で女性に囲まれくだらぬ会話に笑っているときも、そこにあるのは孤独なのである。
孤独になるために、酒を呑み、煙草に火を点け、ギャンブルに手を出し、娼婦を買う。
仕事や趣味に打ち込むのだってそう。全て孤独になるための手段。

女がそれと同じことをする理由は、全て愛を求めることに起因する。
愛が欲しいから、キッチンの隅でちびちびやり、煙を燻らせ、パチンコや買い物にはまり、出会い系サイトで出会った男とかりそめの愛の行為に耽る。
全て孤独を埋めるための手段。

男は、自分たちの悲しい性を知っている。
知ってはいるが逃れられぬその宿命を、時にニヒルに笑いながら、時に自分でも信じられぬほど冷酷になりながら、やり過ごしている。

男と、冷酷さと孤独は、非常によく合う。

だからこそ、優しいのである。
冷酷な人間は、優しい。
悪を知らない人間が偽善者でしかないことの、逆と同じように。

男が孤独を深め、それをどんどん溜めてゆくならば、女はその中で永遠に泳げるような大きな溜池になろう。海にはなれなくとも。

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冬あたたかく

この冬はあたたかくなったり急に冷え込んだり。
何を着たらよいか、朝、迷うことと思います。

久しぶりに着物ネタですが、
着物はほんっとうにあたたかいですよ。

私は毎日着物ですが、洋服のあの芯から冷える感じを想像するだけで、着物しか着たくなくなります。

着物があたたかい理由はたくさんあります。

まず、現代の洋服に比べたら、生地の質のレヴェルは比べようもありません。
今の洋服は、化繊はもちろんアウト、天然素材でも、そのまま着物の世界に入れたら“粗悪”と言われかねない代物しか存在していないと言っても過言ではないでしょう。
新品の着物がなぜあんなにも高いのかといいますと、匠の技もさることながら、そもそも生地、いえ糸、いえ繊維のレヴェルが桁違いだからです。
全身絹の洋服を探してごらんなさい。さて、そこらへんのお洋服屋さんにあるかしら。

同じ絹でも、現代の絹より昔の絹のほうがより人体に馴染みます。蚕さんの成育方法・環境も昔とは違ってしまっているのでしょうね。今の絹は、絹だけれども、何だか化繊のように着た瞬間にひやっとします。

絹は人の肌に近い構造をしていると言われます。
ビーガンの人は身に付けないと言うかも知れませんが、やはり動物性の繊維は動物の肌に近くなります。
絹は生き物ですから、常に呼吸をしています。皮膚呼吸を妨げず、暑さ寒さを調節してくれます。どんな最新の化学繊維も、絹に勝てる日は来ないでしょう。
絹に含まれるセシリンというたんぱく質は、肌を保湿しすべすべにしてくれる作用があります。着物を着るだけで美肌に一歩近づくのです。私が言うと説得力あるでしょ?笑
絹は漢方薬に似たり、と思っています。
着るものなのに、身体にいいものを食べているのと同じくらい身体にいいのです。

次に、そのかたち。
着物は身体に添っていないから、ぴったりしたお洋服よりもスースーして寒そうだと思っていませんか?
ノンノン。
洋服を着込んでいるのと、裸で分厚い布団に包まっているのと、どちらがあたたかいでしょう。
最初は裸に布団は寒いかもしれません。しかし時間が経つとこちらのほうが暖かくなることに気がつくはずです。
そう、着物を着ている状態は、裸に布団で包まっているような状態なのです。
腕(袖)の部分がよくわかるのですが、自分の身体同士で布団の中を暖めているような状態になります。
ほら、洋服を着たまま抱き合うより、裸で布団に包まって抱き合うほうが暖かいのと同じです。(このワンフレーズが書きたくてこの記事書きました!)
布の遊びの部分こそが、あたたかい秘訣なのです。
足元も絹が何重にも巻きついていますから、タイツ一枚よりずっと暖かいですよ。

後は、再三このブログでも書いていますが、お腹部分が何重にも重なっている上に、分厚い帯が巻かれますから、内臓が冷えることがありません。
肢体は冷えても生物学的に危機的状況になることはありませんが、内蔵が冷えると全身やられます。ここが冷えたら、もう冷えを止めることはできません。
着物の構造は、五臓六腑のうち冷やしてはいけない部分は、冷やさないようになっています。
自然療法でよく「肝・腎・脾の手当て」といって、臓器のある辺りをこんにゃく湿布やびわの葉温灸などで温めたりしますが、それと同じことを着物はいとも軽々とやってのけます。

女の身体に冷えは禁物ですが、男性も冷えを感じないからと言って油断したらいけませんよ。男性のほうがお腹が弱い傾向にありますから、しっかり温めてください。

最後に、これからあたたかい着物を選ぼうと思っているあなたに。
いちばんあたたかい生地は“紅絹(もみ)”と言って、真っ赤な緋色の薄い絹です。着物の胴裏や長襦袢によく使われていますが、今では生産されていないとも言われ、リサイクルやアンティークでしかお目にかかれないかもしれません。
でも、ほんっとうにあたたかいので、お試しあれ。
ただ、紅絹の襦袢を着ると、遊郭の遊女になったような気分になるかもしれませんが、そういう高揚感も身体を暖めてくれるでしょう。

今年は着物であたたかな冬をお過ごしください。

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半分冗談、半分本気で往なせ

この11月の半ばより、事態は思わぬほうに展開し、
12月に入ってそれは加速した。

そんなこんなで、来週から私はひとりっきり。
ひとりには広すぎるこの部屋で、
寒さが凍みるこの季節に、
なんでひとりでいなきゃいけないんだよ!
と、気休めに腹を立ててもみるが、
しようがない。

一緒に暮らしている人が、来週から半年間、
名古屋に出張に行ってしまいます。
それもわかったのが12月の朔日で、最初は12日に行く予定でした。
でも、それではあまりに急すぎよう、ということで、1週間先延ばしした次第です。

私はと言うと、
夏の終わりに懇意になった着物屋のおっちゃんに、
宝の持ち腐れしてんと転職し、と言われ、
それでハッと目が覚めて、転職に向けて試験勉強を始めたところです。
それが11月の半ば。

私はあと12年以上は、大阪で身を固めようと一歩踏み出したところでした。

それが、今回の長期出張。
これから先、転勤がないとも限らない、という思いを強くしました。
この半年も、付いてゆくかどうか一瞬迷いました。
しかも実家の近い名古屋とは。
実家の方も人足りてないから帰ったらちょうどいいじゃん、とも思ったり。

もしこれから東北の復興が始まって、彼がそっちの方に転勤になったならば、私はついてゆくしかないだろう。
でも、私が稼がん限りは、子どもも産まれへん。
(ついでに言うと、産休育休がちゃんととれる職業でないと)

もう、どっちしたらええねん、って、下手な大阪弁で頭ん中ひとり芝居してますねん。

私、夢がありますんや。
欲を言うと、子どもは6人、男の子4人に、女の子ふたり。
私は司令官のように統制をとるだけで、勝手に子どもらでやらせるんですわ。

もうちっと、欲をなくすと、
ひとりは彼に似た、優しーくて、かわいーい、男の子。
二人目は、お頭はちょっと弱くても、生き抜く知恵とガッツのある男の子。
三人目は、頭が切れて切れてしょうがない天才頭脳の男の子。

男ばっかりかい、ってな感じですが、
私、男の子にちやほやされたいんですわ。
男の子は大きなったらお母ちゃん大事にしますさかい。
そんでもって子どもなんてあっちゅう間にどっか行きよるから、
どこかへ飛んでってしまう男の子でかましまへん。
お父ちゃんなくなって子どもらも手が離れた後は、
お母ちゃん自由にさせてもらいますえ。
気力があれば恋人つくったりしたいし。

半分本気で半分冗談やけどな。

  

昨晩、夢を見たのです。
彼が猫をたいそう大事に飼っていました。
彼はその猫に惜しみのない愛情を注ぎました。
でも彼は、猫は飼っていないと言います。
それは、猫になった私が、彼に大事に大事に可愛がられていたのです。

なんとも、砂糖菓子みたいな、ふわふわの毛糸玉みたいな夢でしょ?

彼が学生時代に住んでいた一間のアパートに、子猫が迷い込んできました。
それはそれは可愛い子猫で、自分が食べるものもないのに、その子猫にミルクをあげました。
彼はその子猫をジャンパーの中に抱いて、授業を受けました。
その子がみゃーみゃー、みゃーみゃー鳴くものだから、仕方がなくそっと教室を抜けました。

その子猫は、その後、どうなったんだろうな。

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仮想世界

真理とは何ぞや。

私が子供のころより追ってきているテーマは、要約するとつまりそういうことになる。

この世の真実を見つけたい。
宇宙の真理を把握したい。
そういう、真なるものを見つめることができ、真実の道を歩く人間になりたい。

幼少の頃、料理に夢中になったのは、
そこに真理が隠されていたからだ。

料理というのは、習うものではない。
レシピを見て作るものでもない。

食材を見て、その真理がわかれば、
自ずと調理法は導かれてくる。

例えば、水の豊かな日本という風土のとある地域において、新鮮な野菜は、グリルで焼かれるよりも、塩茹でされることを望んでいる。
調理法は、私が決めるのではなく、食材が既に決定権を握っており、私は無心に調理するのみである。
真実を見つめることができれば、その食材が何を望んでいるのかわかる。

私を含め、この世に生きる人間は、あらゆるものに縛られている。
それはF.ベーコンが「イドラ」と表した、日本語で言ったら偏見と呼ばれるものである。

国、言語、民族、宗教観。
そういったものに、私たちは知らず知らずのうちに縛られている。

でも、よく考えれば、それが“仮想”だということに気がつくはずだ。

例えば、お金。
それは現代社会を生きるためのパスポートになっている。
貨幣が発明されてからも、つい数十年前くらいまでは、それが必須というわけではなかったが、今ではそれがないと、路上暮らしを余儀なくされるくらい、最低限なくてはならないものになりつつある。(もちろん例外もあるが。)

それは、食べ物に化ける。
衣服に化け、家にも化ける。
ある人の哲学からすれば、それこそが実体のある唯一のものだと言えるだろう。

でもそれは、あくまで“何事もなく今のこの世が続いてゆく限り”という、限定付きの現実なのである。
天変地異が起これば、ただの紙屑になる。

例えば、高層ビル。
これは、人間の頭の中で作り出した、仮想世界の代表のような気がする。
高層ビルの立ち並ぶ都市は、バーチャルをリアルにしてみましたと言わんばかりである。まるで映画のセットのようだ。
そういう街を眺めるたびに、「バベルの塔」を思い出してしまう。

高層ビルの立ち並ぶ都市だけではなく、古い町並みが残るような風景すら、仮想世界ではないと言い切ることはできない。

つまり、人間の頭の中で考え付いて、それを実際に再現したものは全て“仮想”ということができると思うのだ。
人間が意識で捉え得るものは、ほとんど仮想であるといっても過言ではない。

私が真実だと思うこと。
それは、「世界は絶えず変化すること、宇宙は常に変動しているということ」である。

生物は生まれ、成長し、早急に、あるいはある程度生きて生殖し、死んでゆく。
それこそが真理だ、と思う。今の段階では。

分裂したり、生んだり、産んだりして、どんどんこの世は変わってゆく。
宇宙そのものが大きな生命体であり、その中で、端っこの太陽系の地球というちっぽけな星で、生命はまた分裂したり生んだり種を飛ばしたりして絶えず変化していっている。
いわんや、宇宙そのものをば。

この宇宙という概念も、宇宙飛行士とか、人工衛星とか、地球外生命体とか、そういう意味合いで使うと、またそれは概念に縛られていることになる。
どちらかといえば、仏教で言うところの「空」とか、数字の「0」に近い意味合いかもしれない。
あるようでないようなもの、すでに言語では表せないもの。
言語で表せなかったり、意識では捉えきれないものこそが、「真理」であると思う。

このブログももちろん“仮想”である。
何かあればすぐに消えてしまうし、これを書いている私の考えだって明日には変わっているかもしれない。

私たちは、そんな無常の世界に身を置いているのである。

ネットの社会は言うまでもなく“仮想”である。
いくらその中で仲良くしたり、つぶやきをフォローしあったとして、ある日突然、吹き飛んでしまうものなのである。
SNSが仮想なら、日本人の美意識の集大成である簡素な日本家屋や着物ですら仮想に違いないのだ。そこに違いがあるとしたら、自然を相手にしているか、そうでないか、である。(人間相手のインターネットツールも、人間という自然を相手にしているのだから、批判する対象にはならないのだろう。)

人間がし得る「真実を生きる方法」というのは、今のところ自然に敬意を払い、その中に抱かれて生きる以外には、あまりないような気がする。
自然に流されて、操り人形のように無心に生きるのだ。
ただただ、無心に生きるのだ。

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オーガニックコットン

実家の畑で、綿の実ができていた。

綿の木を見たことがありますか?
芙蓉やオクラに似た植物です。ということは、南方の植物ということです。
(オクラは先の大戦で南方に行っていた人が持ち帰ったという説があります。)

その綿の木は、うちの畑で立派に育って、農薬も肥料もやらないのに、きれいでふわふわの綿の実をつけました。

白と茶の実があって、ふわふわのテディベアみたいで、すっごくかわいい。
夢中になって収穫しました。ほんまもんの、国産オーガニックコットン。

お世話はほとんどしていないのに虫もつきませんでした。
育てているのはせいぜい10本ほどだったので、数が多ければ虫の被害に遭いやすいのかもしれません。
でも実際に育ててわかったことは、
「オーガニックコットンは育てるの自体はそんなに難しくない」ということ。

この実を、種を取って紡いで、糸にして、布にするのはなかなかどうして大変だろうと、たくさんの綿の実を前にして思うのです。
でも、これで糸を紡いで布にできたら、どんなにか素敵なことだろうと、夢はふくらむのです。

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醤油

お醤油を仕込んでみました。初の試み。

国産有機の大豆と小麦でできた麹を、自然塩をお水に溶かして仕込みます。

お味噌もそうですが、お醤油は、日本の寒い冬と、暑い夏を越さなければできません。
でもそれさえあればひとりでにできてしまうのです。まさに神の采配。

日本の気候風土があってこその、お醤油なのです。

私はお味噌汁を毎日食べるので、次はお味噌にも挑戦したいなぁ。

来年の今頃には、きっと美味しいお醤油ができていることでしょう。

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恩返し

もしも時計を反対に回せるのなら、芸者さんになりたかった。

芸者になったら、もう後戻りはできない、潰しが利かないという怖さがある。賭けみたいなものだ。
でも、思えばどんな人生でも後戻りはできないし、どんな人生もそれ自体が賭けみたいなものである。

私も賭けをしてきた。ここまで賭けで生きてきたなら、もう後戻りしようという気もないし、後悔もしていない。
私の生きる方向性みたいなものは、18のときに決まってしまっていたのだ。

高校を卒業する頃には、きっと衰弱して死んでしまうと思っていた。
高校の養護教諭の先生が、私の二つ上の先輩で同じ病気の人がいて、高校を卒業し浪人生活を一人暮らしで送っていたが、次のゴールデンウィークには亡くなっていた、という話をしていた。先生の目には涙がこぼれ、声は震えていた。

その時、死と生の瀬戸際にいるんだとはっきり感じた。

私はひとりの男の子によって、生き長らえた。
高校を卒業してからは少し元気を取り戻し、次のゴールデンウィークには、もう死の影はなかった。
私はゴールデンウィークに死ななかった。それは全て、彼のおかげだった。

この頃から、私は命の恩人に恩返しをするのに人生を捧げようと決めていたのだと思う。
自分のやりたいことは全てこれに置き換わり、今まで将来やりたいと思い描いていたことは色あせてかつての価値を失っていた。

私の志は今でも変わることはない。
ここまで生き長らえたのはたくさんの人に支えてもらったからであり、恩返しをすることにしか、私の生きている価値はない。
私に恩返しをされている人の中には、私が自分の人生を生ききることを望んでいるのだろうが、自分の人生を生きる私は18のときに死んでいる。
今の私は“生きながらにして死んでいる”、かつて私が憧れた存在に近づいた。そういう意味では夢は既に叶っている。

恩返しをする対象は人だけではない。この日本にも地球にも恩返しをしたいし、私が悪者になっても、あるいは損をしても、それらを守りきりたいと思う。

一命を懸けるというのは、きれいごとでは済まされない。
清濁飲み込んで、それらを丸ごと愛するのが、人間がし得る究極の愛だと思う。

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Et alors?

むかし、あるおじいさんと交際していた。
交際といっても、私は車に乗っけてもらって、温泉に連れて行ってもらって、寿司をご馳走してもらったりしていただけだ。
老年の男性に対する慰安ともボランティアとも思わず、ただこの内にあって消えることのない虚空を埋めるために、時間を潰していた21歳の私。

寿司を控えめに頂いてから、山の方を車で流した。山に沿ってぐるぐる回りながら登っていった。
猪も見た。窓から手を伸ばせば届きそうな近さだった。車のライトに照らされた猪は眩しそうだった。

頂上が近づくと、急に車は止まった。少しの沈黙の後、おじいさんの骨ばって硬い腕が伸びてきて、接吻をされた。

ああ、この齢になっても、女性を抱きたいという気持ちはあるのだなぁと、感慨深くなった。

しかも、そのために車を出して、温泉に入れて、寿司を食べさせて、空気と夜景がきれいなところをドライブして、と、実に手が込んでいる。今の若い男の子はここまでする殊勝な人は少ないのではないか。健気で可愛らしく思った。男性と言うのは実にロマンチックだ。

老年期の暴走、というのが、最近のテーマだ。
それについて考えれば考えるほど、人間と言うのは順番通りに成長しているわけではないことがよくわかる。

それなりに社会的地位も高く、周囲から徳の高い人として認められていた人が、老年期になって急に暴走する、これはよくある話だ。
前近代的日本社会が抱える問題とも言えよう。我慢我慢でやってきて、脳の抑止力が効かなくなる老年期に今までの我慢が爆発するのだろうか。
痴呆症やアルツハイマーも、それに通じるものがあるように感じる。

渡辺淳一の小説『エ・アロール』に出てくる老人たちを、いい年してみっともない、とは言えないだろう。
いい年してたって、人間なのだ。

最近は前にも増して、おじいさんたちに優しくしようと思う。
退職後は奥さんに邪魔者扱いされて、居場所を失っているおじいさんが多い。そういうおじいさんたちは、今まで戦士のように闘ってきたのだ。その経験を語りたくてしょうがない。往々にしておじいさんの話は長い。一節終わるのに30分くらいかかることもある。女性なら二言目には合いの手が入って会話がどんどん増幅されてゆくのに対し、男性は理路整然と話せないと、途中で話す気を失ってしまう。だから聴き手は、自尊心を傷つけないように、どれだけでも時間をかけるという態度をとらなければならない。

人間は、埋まることのない、ブラックホールのような虚空を、ひとりひとり抱えている。それは絶対的な渇きと飢えを持った虚空だ。
それを埋めるために人は彷徨える魂のごとく次々といろんなことに挑戦していく。その虚空こそが活動原なのだ。
そしてその虚空を埋めるために異性を求める。性愛の中にその癒しを求める。
一度はそれにより虚空は埋められたかに思う。でもそれは絶対的な渇きと飢えを持っているから、癒えることはないのだ。それは一生続く。

私は性愛でそれは埋められると思っていた。
子どもを産めばそれは埋められると思っていた。
子どもがまた子どもを産めば、それは埋められると思っていた。

でも、どうやらそうじゃないらしい。
このぽっかりと空いちまった悲しみは、影のようにぴったりと張り付いて、一生つきまとうらしい。

だから、おじいさんおばあさんに過度の期待をしないこと。彼らだって完璧な人間じゃないんだから、「いい年して恥ずかしい」なんてのは禁句だ。
特に、今の時代おじいさんおばあさんと言われる人たちは、「見本になるようなお年寄り像」としての自信がなくて(あるいはその概念は崩壊したと諦めて)、揺れているのだ。暖かく見守り、共生してゆこう。

老いらくの恋なんて、ロマンチックじゃないですか。「いい年して…」は禁句ですよ。

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